haremani’s diary

まちの元気を育むダンススタジオ〈studioハレマニ〉の日々のこと

ダンスから見てる世界

本番の日

久しぶりのデュオ作品、本番踊ってきました。

子育てしながら夫婦で踊ることにもだいぶ慣れてきたけれど、

昔の自分にはとうてい考えられない「本番」という日を過ごしている。

 

当日、下の子を連れてリハーサルに行き、

夫は下の子と現場に残りつつ、

私は一度戻って上の子を保育園に迎えにいく。

本番前に子どもたちとご飯を食べ、

(今日はハンバーガー食べに行くんだ!とそれを一番楽しみにしていた娘)

サクッと衣装に着替え、ヘアメイクを整え、

本番までアップをしながら、子どもとパズルをしたり、授乳したり。

出番5分前に、子どもたちを預け、舞台袖へ。

本番中は、別作品に出演の友人たちに子どもたちを見ててもらう。

ふーっと一息、呼吸をしてスイッチチェンジ、

で舞台上へ。

 終わったら、打ち上げ、ではなくて、

子どもたちの就寝があるので、

ささっと帰宅して寝かしつけ。

 

どうやってるの?

 

と聞かれたので、ざっくり書いてみました。

そりゃ、かつては

「今日は本番!」っていう気合とともに、

多少のシビアさを抱えながら、

念入りにアップをして、

念入りにメイクをして、

念入りにイメージ膨らませて、

あぁ踊ったー!ってなって、

それを分かち合いながらお酒も飲んで、

ってやってました。

 

いつもあること

もちろん、夫にこどもたちを預けて舞台に立つときは

これもまだできるはずですが、


今の私にとってはこれが日常で、本番も特別ではないのかも。

変に気負うことなく、いつもの自分でいる中で起こる現象のよう。

私にとってダンスは年々そういうものになってきているし、

決して「特別なパフォーマンス」ではない。

日常にいつもあること。

常にあたため育てているもの。

でも舞台上にいるときだけは、ダンスとだけ一体となっている。

だからこそ、そこだけに集中できる喜びと、ダンスの喜びが相まって

最高の集中状態で舞台に立てている。

そんな感じだ。

 

体験と言葉がむすびつくとき

本番明けの翌日、ハレマニでめゆさんのヨガクラスでした。

今日はこんな言葉を教えてもらった。

 

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この言葉、エリザベトさん(長年、心理や哲学を研究されてきた方)の

晩年の言葉なんですって。

 

わたしは

自分がいのちの息吹のように

軽やかなのを感じます

 

人生の最後にこんなこと言えたらいいよね、と皆で分かち合いました。

「わたしの人生ほんとに壮絶だったわ」とか

「こんなことしてあんなことしてすごかった」とかではなく、

 

「軽やか」だ

 

って。

 

重さを知っているからこそ、軽やかといえるんだろう。

 

余計な見栄や固定概念などに縛られずに

いのちそのもので生きているからこそ、軽やかなんだろう。

 

そんなことを思いました。

 

特に後者については、

子どもたちに教わることばかり。

 

ダンスは生きること。

「特別」に生きたいのではない。

ありのままで生きること。

自分の人生を生ききること。

こどもはまさに、それそのもの。

 

本番で感じたことと、その翌日にこの言葉から考えたことが

自分の中で繋がっていく。

もっと軽やかに生きてく面白さを見つけて

さらにわくわくする。

 

本番のあと

作品を上演することで、ひとつ世に作品を生み出しました。

生んだら生んだで世界がぐるっと回り始める。

これは実際に赤ちゃんを産むことと一緒のよう。

急に生活リズムが変わり、暮らしに求めるビジョンが変化していく。

 

ダンス作品をひとつ世に送り出し、

作家である夫はこの作品をどう育てていくか、もう次を見ている。

 

私もこの一つの出産エネルギーをともにし、

次なる創作を後押しするパワーをもらっている。

 

今年はハレマニで公演のようなことをしよう。

滝野川でディープなことに挑戦するとともに、

外へも繰り出そう。

地方、海外へ目を向けつつ、

次なるビジョンをリサーチしていこう。

と胸にあらたな想いが宿る。

 

 

一つの作品。

やって満足・・・というようにそこで終わらない。

むしろ始まりでしかない。

そこから得るものが多すぎる。

 

やはり出産同様。

 

ものを生み出すこと、

世のなかに発信することで世界が動き出す。

 

 

さぁ、発進!