工夫してたのしんだら、ごはんが永遠に食べられるハナシ
例えば、大切な人が重い病の中にいるとき、なにができるか。
例えば、大切な人が怖いという気持ちに押しつぶされそうになっている時、なにができるか。
一つ目の例えばには、
病の現象に囚われずに、晴れやかなビジョンを描く言葉を一緒に生み出した。
二つ目の例えばには、
やると気持ちが落ち着く「まじない体操」をつくってプレゼントした。
これは最近実際に私が経験した話です。
元気ってなんだろう。を兎角考えてしまいます。
「生きることをたのしめて、おもしろがれること」なんだと思った。
そのためには心地いい体があるといいし、風通しのいい頭に、柔らかく満たされた胸があるといい。
自分がそうしていられたならば、人が困っている時に手を差し伸べられる(工夫してたのしめる)んだとあらためて感じた。
人間、気持ちも体も頭もバラバラにはできなくて、どれも一緒に感じてあげないと壊れるんだな。だから、逆に、一緒に感じてあげるだけでほぐれてしまうもの、叶ってしまうものもたくさんある。
最初の例えばの話の続きに戻ると…
その後ふたりともパッと明るく開けた表情を見せてくれました。
元気になった人の顔や姿をみたり、うれしさを分かち合うことが、泣きたくなるほどにうれしい。そう感じた私の頭の中では鐘がガーンガーンと祝福するかのように鳴り響いていました。
これだけでごはんが永遠食べられるような、お金をかけて手に入れられるアレコレにはない、他になにもいらない。という満たされたやつです。
そして「まちの元気を育む」ハレマニのことを考えます。
やっぱり私はそれに喜びを感じる。
私は踊るのもエネルギーの交換だと思っていて、つまり誰かと分かち合っているから大好きで。
一緒に体動かしたあとに、「うん、だよね!」ってなにもないのに意思疎通できちゃう心身がたのしくて。
あー!ますます元気を増殖したくなった4月のはじまりです。